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2005年01月22日

尾崎豊トリビュート 青。

今更買ってしまいました。
年末のカラオケでとりあえず流すだけ流してみた太陽の破片(岡村康幸)が、予想を上回る岡村節全開ぶりだったので、思わず。

あの衝撃は筆舌に尽くし難いので、是非聴いてください。ひっくり返ります。さすが岡村ちゃんです。

Coccoは今でもCoccoだなあとか、橘いずみは今でも橘いずみだなあとか、斎藤和義は歌い方が叙情的で良いなあとか、マッキーは相変わらずねっとりした歌い方で、メロディーメーカーとしての才能は認めるものの、俺としてはやっぱ好かんなとか、いろいろと思うところはあるわけですがね。

175Rが、17歳の地図をスカコア調でカバーしてるのを聴いて思っちゃったこと。

むろん、初期尾崎が当時のミュージックシーンに与えた衝撃は多大なものであったことを否定するものではないのだが、やはり、現代ロックの修辞表現のレベルから見れば、拙い言葉だなあ、と。
175R自体がかなりシンプルな音楽を好むバンドであるという印象があるのだが、その彼らでもここまでシンプルな言葉は書かないだろうと思う。

これは、たとえばアンジーやECHOES(いずれも俺としてはかなり好きなバンドである。どちらも当時の基準で言えば、かなりこまっしゃくれたバンドであったように思う)を今聴くと、わりとフツーというか、まあこのぐらいのメロディーや言葉は、十分一般層が受け入れるよね、と思ったりするのとパラレルであろう。

これについては、芸術というジャンルの何を見ても同じ現象が起きていると思ったりもする。
勃興期があり、円熟期が終わると、忠実にお約束をなぞる形骸化した古典派と、様々な試行錯誤を繰り返しつつ、難解の袋小路へとはまりこんでいく前衛派に二分化する動きは避けられないんじゃないかと思う。
まあ、後はパロディ化の道とか、ルネッサンスとか、いろいろあるわけだが。
(ちなみに、前者が娘。、後者が松浦か?)

俺などが通ぶって、修辞表現の発達を手放しでもてはやしてる一方、ロックバンドが続々とアニソンに起用される昨今なのであって、ややロックというジャンルは、オタクカルチャーに飲み込まれつつあるのかな、と思ったりもするのである。

で、まとめ。
流行歌は時代を映す鏡であるというようなことを、昔誰かが言っていたと思う。
尾崎豊の楽曲は、間違いなく80年代半ばから後半の、ある世代の青春の鬱屈を封じ込めた、優れた鏡であると思う。
一方で、若者の鬱屈など、どの世代もさほど変わらないのではないかと思ったりもする。
その感情を、どうしようもないほどストレートに音楽という表現にぶつけた、尾崎豊という一人の人間に、現代の、あるいは未来の、無数のオザキユタカが出会うきっかけとして、このアルバムにおいて行われたブラッシュアップというか、リプロダクションは、効果的に作用するのではないかと思う。


減点材料もそれなりにはあるんだが、まあ、原曲をリスペクトした結果のことと好意的に解釈するとして。
アーティストの熱量の高さに、星4つ献上。

投稿者 ushila : 2005年01月22日 12:47

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