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2005年08月26日
我ながらこのラインナップはどうかと思う。
新ゴーマニズム宣言「沖縄論」「靖国論」(小林よしのり)と来て、「コミック嫌韓流」(山野車輪)。
その間には「ぷちナショナリズム症候群」(香山リカ)だの、「某国のイージス」(福井晴敏)だの、「図解雑学 クラウセビッツの戦争論」(川村康之=元制服組の防大教授)だの挟まってるわけですがね。
小林は「戦争論2」で「現在の基準で過去を裁くのは誤りだ」というようなことを言っていたように記憶している。
俺はこの件についてはベクトルの向きが思いっきり逆で、帝国主義---国家の経済的発展や安全保障のために、軍事力を背景に植民地や領土の拡大を図る考え方。何でこんな言葉の定義をいまさらするかというと、帝国主義と資本主義を同義のものとして使う人たちがいるから---そのものに対する批判というものをきちんと持っていないと、国際社会の安定はないと思っている。
東京裁判の妥当性云々であるとか、憲法第9条と自衛権の関係であるとか、そのあたりの話については小林の主張を理解するところもあるのだが、そこから導かれる結論は当然違ったものになる。
前者については、戦争の勝敗が指導者(あるいは国家)の戦争責任の有無を決定する根元構造に問題があるのだが、(創設的議論として)それは日本の国家指導層が裁かれるべきで無いという話ではなくて、単純に言えばルーズベルトやトルーマンやチャーチルも裁かれるべきだと思うし、クラウセビッツに依れば戦争を支えるもののひとつとして世論があるわけであるから、当事国の国民全てが起きてしまっよ戦争について指導者の監視を怠った反省を持たねばならないと考える。
(「侵略」を受けた側は被害者ではないか、と言う指摘は当然あると思うのだが、極限まで突き詰めれば攻められる方も知恵がない)
後者については、俺は国連中心主義しかないと思うのだね。
現在の国連は権限が小さすぎると思うし、同時に意志決定機関の相互関係に問題があるとも思っているので、様々な意味での制度改革が必要であると思うが。
なぜそう考えるのかというと、理由は現代の兵器が効率的になりすぎた、と言う一点に尽きる。
竹槍や石オノ(もちろん比喩です)や、せいぜい大砲が戦争の道具であった時代と比べれば、距離においても効果の大きさにおいても、現代兵器はケタが違うのである。
再びクラウセビッツ的に言えば、現代の戦争は簡単に「絶対的戦争」だの「力の極限行使」だのと言われる状況に突っ込んでしまう危険を孕むのであって、その中では「戦争は他の手段を持ってする政治の継続」という「戦争論」の根幹的主張も、その取り扱いをデリケートにしないといけないと考える。
(一方でクラウセビッツはシビリアンコントロールの必要性も指摘しているわけで、そもそも20世紀前半の戦争は、「戦争論」の誤読からはじまっているという解釈もある)
現代という時代に即した戦争観というのは、そういうものではないのかなあと、考えるのである。
俺はアメリカも中国もロシアも韓国もアルカイダも軍事的に日本を攻めてくる可能性があると思うし、小泉的な対米追従外交を苦々しく思う一人であるが、だからといって単純に日本の軍備拡充(≒自衛力強化)だけを解決策にするのも、アメリカ的な「軍事産業を食わせるために戦争をする」愚がバックリ口を開けているようで、ナンセンスだと思うのだよね。
それで、本当の意味での国際協調というか、クサい言い方をすると「人類全体の意志決定」が国家間の紛争を解決するあり方というのを模索すべきだという結論にたどり着いた。
小林の資料調べについての熱心さには敬意を表するのだが。
さて、さらに「コミック嫌韓流」だが。
2ちゃんねるのハングル板と、右よりの人の著作の孫引きだけで書かれたゴー宣(ストーリー仕立て)というテイストがするんだなあ。
巻末に膨大な「参考資料」が掲げられていて、よくこれだけ読んだな、と関心はするものの、一次資料を当たっている感じが全くしない。
主人公と、対立する韓国系や市民団体の人々の絵ヅラも「悪意的」と疑わざるをえない書き分けがされているし(レッテリングの多様は、小林著作にも共通するのだが)。
と言うわけでまとめ。
このテの著作を鵜呑みにすることは、彼らの言う「反日マスコミ」の報道を鵜呑みにするのと同じぐらい危険な(誤解を恐れずに言えば「愚かな」)行為だと考える。
自衛権や太平洋戦争に対するとらえ方も対中・韓関係も、必ずしも二者択一的に思考する必要はないはずで、問題解決のために必要な方策を、十分な思考に基づく十分な議論を基礎として追求していくべきではないだろうか。
……っと。
投稿者 ushila : 01:20 | コメント (1) | トラックバック
2005年08月16日
八月十五日。
何となく漢数字で書きたくなるのは私だけではないはずだ。
見事な夏風邪で五日間ほど寝込んでおりました。
関係各方面のみなさまには大変ご迷惑をおかけいたしております。
明日より出社いたしますので、ご無礼の段、何卒ご容赦下さいますよう、衷心より切にお願い申し上げます。
それはともかく。
八月十五日である。
終戦60周年である。
そう言えば、「終戦60周年」とはよく言うが、「敗戦60周年」とはあまり言わないなあ。
このことはどう考えるべきなのだろうか。
「敗戦」という言葉のどこか卑屈な響きを忌避している結果なのか。
「戦争に負けた」と言うことより、「戦争をしてしまった」ことが重要であるという無意識に依って立つものか。
それはひとつの問題提起としてほったらかしにするというか、みなさまのご意見をいただきたいところですが。
小泉純一郎は靖国神社に行かなかったわけだが。
報道されているとおり衆議院選挙への影響を考慮しての云々、と言う話であれば、ちゃんちゃらおかしい。
自民党の票田のひとつとして遺族会(正式名称は忘れた。全国戦没者遺族会だったか)があるわけだが、要するに靖国参拝は小泉にとって選挙のためのポーズであって、それが選挙に悪影響を与えるという判断であれば取りやめる程度の問題であったと言うことだ。
「戦争は外交の一手段である」とは、クラウセビッツの言葉だそうだ。
(俺の記憶では「最後の言葉である」だったのだが)
最近は「戦争は外交の失敗、戦場は議場の失敗」などとも言うらしい。
「特攻は統率の外道である」と言ったのは大西瀧治郎海軍中将だそうだ。
要するに何が言いたいかというとだ。
数ある外交の手段の中から戦争を選んでしまった(選ばざるを得なかった、選ばされた、あるいは選ばせた、と言い換えても良い。どうせ同じ意味だ)こと。
数ある戦術の中から特攻、あるいは無差別爆撃、さらには原子爆弾の投下を選んでしまった(以下同文)こと。
そう言うことについて小泉式の「愛読書は特攻隊の皆さんの遺書をまとめた本(筆者タイトル失念ご容赦)だ」的靖国論は、何ら説明をしていない。
総理大臣として靖国神社を考えるとは、国家の特に対内的な戦争責任を考えることを内包せねばならないと思惟するところであるのだが、どうか。
話はやや変わる。
俺は広義の第二次世界大戦(太平洋戦争、日中戦争含む)は、その勃発そのものが歴史の上での一種のバッドエンディングだったと捉えている。
最初のフラグはもしかすると15世紀ぐらいから立っていたんじゃないかと思ったりもする。
最後のフラグを立ててしまったのも、実は単に枢軸側とされる「プレイヤー」だけではないのではないかと考えてもいる。
だから、戦争、およびその中で起こる様々な出来事は全て、人類がかつて愚かであったことの証左に他ならないと考える。
さらに現代を省みてみる。
数ある権利主張の方法の中からテロを選ぶこと。
宙ぶらりんな国際連合。
作っちゃったらなかなか壊せないらしい核兵器と、未だ絶えない核武装志望国。
つまるところ、人類はまだまだ十分愚かだということではないか。
だから、外交問題も国際紛争も、無くなるということは無いだろう。
だが、それを「仮想の一点」として漸近していくために、人類はまだ愚かであるという認識は、礎足り得るのではないかと、俺は考えるのである。