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2005年09月14日

リテイクだ……(のまネコ問題)

タイトル(炎尾 燃テイストで読んでください)がいきなり意味不明だが、5.6kbほど書いた文章が気に入らなかったので、全部消して書き直したので、とにかくそういうことで。

まず、この件に関して言えば、制作のプロの認識からしてこの程度、ということが、コントのように嘆かわしい。
なっち問題(っていまさら混ぜっ返すのもどうかと思うが)のときに、さんざん「制作側のチェック」みたいなことを言っていたが、そんなもん初手から望むべくもなかった、と言うことだろう。

一方、今回の件で憤っているネット側(主に2ch方面)に対して言うこととしては、これまで知的財産権軽視で突っ走ってきたことに対するシッペ返しなんじゃないの、これ? ということ。

もっとも、法律なんてそんなもんなのかもしれない。
多くの人は、自分が防御的立場に立った時に、はじめて意識するみたいな。


んで、結論から言ってしまえば、モララーの著作者あたりが差し止め請求起こせばあっさり決着するんじゃないの? というだけだ。

本人に訴訟を起こす意志がなければ、ちょっと著作権の枠では解決が難しいし、他の知的財産権関係法規(商標法とか不正競争防止法)を当たっても、一般法である民法まで遡っても、どうも結果に実効性のある理論構成をすることが困難であるように思う。


この問題をややこしくしている原因は、ざっくり言って二つあると考えている。
1.「AAに著作権はない」という、巷間流布する考え方
2.「キャラクターに著作権的保護はない」という、現在主流とされる学説

1.については、AAを使用していて著作権法違反で訴えられたらどうしよう、と言う「防御的」な考え方に基づいたものだ、という俺の認識をまず示す。
その上で、法理論的な解釈を加える。

著作権法の求める「創作性」は、特許権におけるそれと違い、「高度」という概念を有しない。
だから、線画を組み合わせるだけのAAも、著作権的保護の対象になる。
(問題は、創作の元になる思想・感情がない場合だが、そりゃ「アート」じゃないし)

まず、著作権法制は、著作者による積極的な「権利の放棄」に基づく、「権利の消滅」という考え方そのものを、立法上想定していない、という学者の話をどこかで聞いた記憶がある。
(著作権法学会かCRICあたりの講習会、研究会の類だろう)
たしかに、著作権の消滅についての法律上の規程は、保護期間の終了か、保護期間中であっても権利を承継する者が存在しなくなった場合の2点しかない。

ネット文化が萌芽した時期から、おもにソフトウェアの分野で、PDS(PDW)と言われる、作者が著作権を放棄したと宣言して配布するソフトウェアが存在した。
(有名なところでは、日本発のバイナリ>テキストエンコーダー、ISH等)
しかし、この著作権の放棄という考え方自体、前出の通り法律の規定によらない創出的な考え方なのであって、法律の側から言えば「利用の許諾に関して一切の条件を付帯しない」旨を宣言したに過ぎない、と言うことになる。
招来する結果は、たぶん変わらないのだが。

さらに、PDWに関する著作権放棄の考え方と、AAにおける「著作権の不存在」の考え方の決定的な違いは、著作者による明示の意思表示の有無である。
一般に法律の世界において、意思表示は明示(口頭、文書等の形で表明すること)、黙示(「行動や周囲の事情を総合すれば、一定の表示行為があったものと判断されると言うこと」…有斐閣「法律用語事典」内閣法制局 法令用語研究会編)を問わず成立するものとされている。
しかしながら、知的財産権法の分野では、権利者と利用者が1対多の関係である可能性が物権・債権的な関係に比して高いため、主に権利者保護の観点から、黙示の意思表示による利用許諾の成立は狭く解釈されるべきであると考えられている。

このため、黙示の意思表示に基づく著作権放棄、と言う考え方自体が、法理論上はその成立を疑われるものであると、指摘せざるを得ない。

振り返って、AAにおける実相はどうか。
実は、この分野に限っては、「黙示の意思表示」に成立の余地があるのではないか、と考える。

多くのAAは、その創作・公表から現在に至るまで著作者から権利行使が行われた事実がない。
この事実については、「権利を放棄しているからだ」という考え方も可能なのだろうが、同じ結果をもたらす解釈としては、「これまでの利用形態が著作者の考える許諾の範囲に合致していたからだ」という考え方も成立しうる。
前述した「黙示の意思表示」と絡めれば、「著作者人格権のうち、氏名表示権を侵害しない利用形態」
という範囲においての利用に関しては、他のいかなる条件も付さない、という意思表示が行われている、と言う考え方だ。
今回の件は「のまネコ」がavexと わた なる人物の(C)くっつけて発表されたことが最大の問題なんだろうし。そこで「暗黙のアレ」(C)橋本真也を超えちゃった、って論理構成が一番すっきりすると思う。

補足的に言えば、著作権が消滅したのちも、著作者人格権に対する配慮の義務は残る。

いわゆる「取引の安全」の観点からは攻撃を受ける余地があるが、avexはモナーをはじめとするAAキャラがネットワークコミュニティの中で成立したものであることを認識しているわけだから、あまり心配する問題でもないように思う。


2.についても、俺は懐疑的なんだよね。
実際、(射程は短いとしても)キャラクターの利用を著作権法違反と捉えた判例はあるわけだし。

マンガやアニメなどの現代的な視覚表現において、「キャラクター」ってのは、美術的性質だけを持っているわけではなくて、その後ろに文学的な意味を背負っていると俺は考えるわけだ。

端的に言うと、
「明るく元気で頭脳明晰、スポーツ万能でケンカも強く、社交的で面倒見がよく、みんなから番長と慕われる碇シンジ(家庭環境円満)」
っていうものが同人誌の類なんかに登場したら、それは「碇シンジ」というキャラクターなのか、と思うでしょ?
原義的な意味でのパロディでは成立の余地があると思うけれども。
(原義としてのパロディの定義については、フランス著作権法あたり調べてください)

やっぱ「碇シンジ」と言えば、「新世紀エヴァンゲリオン」に登場するあのキャラなわけで、やっぱり二次創作も、あのキャラに引っ張られるわけですよ。
そうするとそれは、もはやキャラクターの利用という範囲を超えて、作品総体の二次利用という性質を帯びてくるのではないかと考えられる。

で、そう考えると、「モナー」の後ろには、いわゆる2ch的ネット住人総て(狭く解釈するならば、一度でもモナーを利用してAAを創作したことがある人総て)を権利者とする「モナー・サーガ」とも言うべき共同著作物としてのストーリーが存在する、という考え方が成り立つ=それら権利者が原告となって訴訟を起こすことが可能のようにも一瞬思ったが、やっぱ無理があるよなあ……。


というわけで、著作権法の側から、今回の件で利用差し止めを求める上での理論構成を検討してみた。
あくまで私論かつ試論であるので、これがそのまま裁判所の判断に合致するかについては、残念ながら保証できない。


そして最後に。
冒頭にもちょっと書いたけど、ある意味でこの事件は、いわゆるネット住人と呼ばれる人々が、著作権をこれまで軽視してきたことに対するシッペ返しだと思うのである。
いわゆる黒flash、違法ファイル交換、あるいはAAそのものにしても、単に既存のキャラ/人物をAAとして置き換えただけの行為や、AAキャラのセリフとして著作物を利用する行為は、これまでネット住人が著作権を軽視してきたことの証左だ。
だから、「不買運動して、聴きたい曲はDLすればいい」と言うような発言には、俺は賛同しかねる。


かなり無難なまとめ方で気が引けるが、このことがavexに対する糾弾だけで終わらず、ネット住人にとって、著作権をきちんと考えるキッカケになればよい、と思っている。


俺はだいたい一週間考えて文章でっち上げたんだから、喉元過ぎて熱さ忘れやがったら、そのときは本気で怒るぞ。

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投稿者 ushila : 2005年09月14日 00:44

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コメント

今回の件に関連して、フォークロアについてもひとくさりたれてやろうと思ったら、ちょうど手元に論文が届いた。

ナイス。勉強しよーっと。

投稿者 ぜんこうじ : 2005年09月16日 18:46

ぱそこんこわれた。
宿題提出できません。先生。

投稿者 ぜんこうじ : 2005年09月16日 12:42

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