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2005年10月16日
メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(2)記号と恣意
前項で見たように、必要とされる分節の度合いに応じて、記号を使い分けている。
言い換えれば、記号の選択はきわめて恣意的に行われている。
グレープフルーツの例では、わりと記号はまともに働いているのだが、これがもうちょっと複雑な内容の記号になると、話もそれにつれてややこしくなる。
たとえば、食品の産地詐称というニュースが、一時相次いで報じられたのは、記憶に新しい。
銘柄米、ブランド肉などといった「記号」が、正しく商品の内容と言う「意味」を示していない好例なのであるが、この場合それら記号が持つ意味内容は、供給側が消費者を誤誘導しようとする意図である。
(そんなもん食べてみればわかるじゃん、とか、値段が安すぎるからおかしい、とか、見分ける方法は確かにあるのだが、言語と言う記号は強力なのである)
偽ブランド品の横行や、いわゆるレッテリングなども、発信する側が受信する側を何らかの誤解に誘導しようとする意図の記号表現、と言うことができよう。
グレープフルーツと言う記号は基本的にそのもの以外を記号内容として持たないし、それ以外に誘導されても「これミカンじゃん」と言えたりするわけだが、女子高生のラルフのセーターが本物かとか、総理大臣は軍国主義者なのかとか言う話になると、検証は困難になる。
ブランドの話をもう少し続ける、というか、ブランド品はなぜブランド品として珍重されるのか、と言う話がしたい。
根源的には、デザインや機能、構造が優れているとか、そういう「他に比して優秀な性質」が、(広義の)ブランドの価値の裏づけになっていた(過去形)はずである。
価格が高いとか、生産数が少ないとかいうのは、本来それら「優秀な性質」を維持・確保するために結果として付帯する性質である。
しかし。デザインが旧態化したり、技術水準の全体的な底上げに伴って機能や構造が陳腐化したりすることは間々あるわけで、こうした場合に「ブランド」品は記号内容から遊離し、ただ高くて数が少ないという、工業製品としては劣った性質しか持っていないにもかかわらず、ブランド品だから、と言う理由で珍重されることになる。
じつはもう少し言いたいことがあるのだが、特に現代においては(と言う表現も確かかどうかわからないが)、記号表現と記号内容は遊離する場合がある、と言うことを、ここではまとめとしておきたい。
投稿者 ushila : 2005年10月16日 22:48
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