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2005年11月22日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(4)オタクと記号。その1

つまるところ、オタクという言葉自体が、もちろん記号なのである。
いきなりつまってしまって恐縮だが、そうとしか表現のしようがないのである。

むしろ、そういう風に理解しないと、オタクと一般人という分節=異化に意味付けができないのである。
いや、どちらかといえば、一般人という記号のほうに問題が潜んでいるのではないか、とすら考える。
これがすでにオタク側の言質であるといってしまえばそれまでなのだが。

そもそも、オタク、起源としては「おたく」あるいは「おたく族」という記号の意味合いは何であったか。
その辺りを冷静に見てみると、いわゆる「新人類」が、自分たちと同じ集団として括られている中の特定の一部を、異物して外部に排出するために作られた記号、という意味合いを強く感じる。

ついでに「新人類」という記号そのものを精密に分析すれば、それは「おたく」を分節する以前に、今で言う「体育会系」とか、婉曲的に言えば「地方在住者」とはすでに分節された、言ってみれば「都市(たぶん、特に東京)に居住する文化系男子」ぐらいの意味合いだったことが見えてくる。
(ちなみに、「おたく」という言葉を最初に世に出したのは中森明夫だそうである。引用は避けるが、随所に「僕たち」なる単語が出てくるあたり、要するにその文章自体、恐ろしくクラシカルなアジテーションなのである)
しかも、その分節の中身も、「(特に異性との)コミュニケーションが不得意そうな、暗い連中」ぐらいのものでしかない。

つまり、だ。
そこそこリッチで、そこそこオシャレで、そこそこ情報(特に物質消費に関するもの)に敏感で、それなりに異性とも仲良くできる若者を「新人類」と定義し直すために、パージすべき存在が「おたく」だった、という程度の話なのである。
(一部表現が古いのは、80年代前半的雰囲気を出すためです)

さて。この「新人類」の定義を見直して欲しい。

都会に住んでいること。
物質的に豊かであること。
ファッションセンスに長けていること。
流行・情報に敏感であること。
異性にモテること。

これらを「良いこと」とする価値観は、新しいものでも何でもない。
なんとなれば、安土桃山時代や江戸時代(特に元禄・化政時代)あたりにも、もしかすれば弥生時代にもあった価値観である。
強いて言えば、「高度情報化社会」(というのも昭和の言語だな)において、「情報」の持つウエイトがより高かった、あるいは情報をファッションにする文化を持っていた、という程度ではないだろうか。

平たく言ってしまえば、それは商業にとって最も都合のいい自我構造と言うことができるし、その程度の自我と異化されるために「おたく」と言う記号は誕生したのである。


しかし。
再度ここで言いたいのだが。
記号表現と記号内容は遊離する場合がある。
記号内容が複雑で抽象的な場合は尚更である。

発信者にとっての「おたく」が、受信者にとって「オタク」になったとき、その記号内容は拡大した。
「新人類」にとっての「好ましくない異物」であった「おたく」は、一般人(だと自分のことを思っている個々人)にとっての「好ましくない異物」としての「オタク」に変容したのである。

簡単に言ってしまえば、道徳的、生理的など、様々な文脈はあろうが、自分が理解できない(理解しなくてよいとされた)趣味に耽溺する他者を異化・類別する記号としての「オタク」が発生した、と言うことである。
レッテリングって真似しやすいよね、ぐらいしか言いようがない。


さらに、オタクという記号は一人歩きを続ける。
火に油を注ぐような事件は断続的に発生したのではあるが。
特に1990年代における「オタク」の定義は、ほとんど犯罪者予備軍と同義であったのではないかと思う。

それは言いすぎだとしても、たとえば鉄道のホームでカメラを構えている鉄ちゃんとパンチラ狙いのカメラ小僧を同一視し、さらにカメラ小僧=スケベと言う連想から、幼女にイタズラをしてしまう、亢進しまくった幼児性愛者と同じカテゴリに括ってしまうぐらいの論理の飛躍はあったように思う。

そんな勢いでオタク連中が犯罪を重ねていたら世の中エラいことになっていると思うのだが。
(つづく)

投稿者 ushila : 00:09 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月19日

しっぱいだー

すげぇイタいガンダム市場主義者みたいな文章じゃんかー。
半分ぐらい居酒屋で書いたからなー。

そうそう。
うちの近くにいい店あるんだ。薩摩地鶏の。
そこの砂肝もなかなかよ?

投稿者 ushila : 11:22 | コメント (0) | トラックバック

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論 インターミッション2 ガノタと記号


そういえばフランス語なんかが男性名詞と女性名詞を厳密に区別すること自体、すでに記号論的なのだよなあ、とふと思った。
もしかしたらソシュール自身、そういうところから記号論の着想を得たのではないのかね、と、それはともかく。


ガンダム


である。
ガノタ善光寺さんにとっては大事な大事な作品である。
しかし、この作品は同時に、記号の宝庫、別の言い方をすれば、異化と同化の宝庫、とも言えるのである。

・アニメ(アトムからキャンディキャンディまで)
・巨大ロボット(鉄人28号、マジンガーZ、etc)
・ブリッジ(スタートレック、宇宙戦艦ヤマト)
・軍事(上に加えてあまたある軍事モノ。時代物もそうか?)
・群雄劇(さらにたくさんの前例があるが、なにを置いても三国志?)
・渋いオヤジ(ジュヴェナイルSFに渋オヤジ、という組み合わせは、やはり松本零司なのだろうな)
・美形ライバル(元祖はよくわからないが、ガルーダとかハイネルとかリヒテルとかシャーキンとか、まあ大体あの辺)
・帝国(恐竜でもガミラスでも銀河でもクリンゴンでも、好きなのを持っていけ)

漁れば他にも出てきそうなものだが、まあ大体そんなもんだろう。

これら一つ一つは、先行する作品群がすでに使用している記号である。
では、ガンダムがあれほどのヒットを生んだ理由とは何だったのか。

これについては、ガンプラ+再放送発火点説から、「リアル」礼賛まで諸説フンプン(シャア様に萌えた腐女子が本当の意味での火種だったという説もある。まあ、ピカレスクの香りのする美形キャラ、という点では、当時珍しかったのかねえ)なのであるが。

どちらにせよ、ガンダムの特色を、単一の記号に集約させることは、厳しいんじゃないかと思う。
SFとして、とか、群像劇として、とか、ミリタリーものとして、と言うくくりに置いては、より優秀な作品は数多あるのだろう。
誤解をおそれずに言えば、記号としての独創性(突飛さ)と言う点では、戦艦大和やC62が宇宙(と書いてそらと読む)飛んじゃう松本作品の方が断然スゴい。

そういうことをつらつら考えるに、ガンダムという作品の凄さというのは、とにかく記号をてんこ盛りにした、ある種びっくり箱状態を、受け手の前にボーンと提示してしまった豪胆さにあるのではないかと思うのである。

これは、まったく皮肉ではない。
正統派主人公ロボット(空は飛べないが)のガンダムであれ、
ジオンのMS群の兵器っぽさ(MAや水中用MSはキテレツメカだが)であれ、
赤い彗星の悪い王子様っぷり(ついでに言えばセイラさんとの悲劇の姉妹の物語)であれ、
ニュータイプという謎の概念であれ、
それを糸口にしてビックリ箱の中の記号を並べていけば、受け手は自分なりのストーリーの柱を構築できたのである。

記号論では複数の記号の結合による意味創出の働きを「統辞」と呼ぶのだが、統辞の多様性とか、仮にそれが送り手の意図したものと異なるのであれば、統辞の自由度の高さが、ガンダムという作品が多くのファンを生み、また俺のごときガノタを引きつけて止まぬ魅力なのではないか、と考えるのである。

ガンダムはその後多くのフォロワーや後継作品を生んだが、トミノ御大自らが後年語ったという、「ツノが二本生えてて目が二つあれば」に象徴される、ガンダムという表象の模倣(兵器としてのロボット云々、それまでのロボットアニメの常識を打ち破る云々を含む)の域を出なかったことが、それらフォロワーのうち多くの作品の失敗につながっているのではないだろうか。

(以下余談)
ガンダム以後で多くのフォロワーを生んだ作品と言えば、エヴァだよねえ。
おいらよくわかんないのでパスしますが。
(キンゲもブレンもエヴァのフォロワー、と言ったら、御大はどう思うのだろうか)

こないだ完結した「蒼天航路」を読んで思ったこと。
三国志も統辞の宝庫だよね。
主人公を誰にするかで物語の様相が全く違ってくる。
現代世界もそうなんでしょうが。

最初に着目する記号によって全く異なる統辞が現れる、と言う点では、ガンダムの正統後継者は萌えアニメだ、と、一瞬思ったが、あれは美少女ゲームの文脈から発生した文化だろうなあ。

最初に着目する記号によって全く異なる統辞が現れる、と言う点では、ガンダムの正統後継者はモーニング娘。だ、と言ったら、袋叩きですか。

投稿者 ushila : 01:11 | コメント (0) | トラックバック

教訓のない昔話


記号論シリーズではありません。

鬼退治をすると財宝が手にはいる、という類型の昔話がよくある。

海外で、魔物にとらえられたお姫様を助けにいく話も、大体似たようなものだろう。

こうした類型の物語は、大抵単純な勧善懲悪の物語であって、一説には鬼は疫病などの災厄を表象する記号であるともいう。

つまり、鬼は裏側でみなしごを養っていたりはしないし、桃太郎や一寸法師や頼光四天王はオヤジ狩りで奪った金でクスリをやったりはしない。
(最近のマンガはむしろそういう話が多いね)

要するにここで言う「鬼」は、通常存在しないとされる「絶対悪」を象徴する存在なのであって、裏を返せば「鬼退治」の構造を現実世界にそのまま持ち込むこと自体、ナンセンスだということになる。

しかし、実際に「鬼」にされるモノと、「桃太郎」になりたがる人々は存在する。

官僚と庶民、抵抗勢力と小泉純一郎、フセインとブッシュ、鈴木宗男と辻本清美、自衛隊と(好きな言葉を入れてください)などなど。
現実社会で鬼にされる存在の多くは、程度の大小こそあれ「相対悪」に過ぎない。

「桃太郎」は、「相対善」にしか過ぎない自分の存在を「絶対善」または「絶対の正義」に見せかけるために、相対悪を絶対悪に見せかけるのである。
桃太郎の仮面をはぎ取ったら鬼がでてきた、という、逆「桃太郎侍」的な話は、世の中ゴロゴロしている。


さて。前置きが長くなった。
何の話をしようとしているかというと、モナーをめぐる例の話である。
ここの桃太郎さんたちは伝説の鬼スレイヤーは持っていなかったが、団結の力で鬼に立ち向かい、まあそれなりの戦果を挙げている。
エイベックス鬼は桃太郎の村から大事な宝物を盗んだから、まあ悪いんだろう。

しかし。
ここの桃太郎村は、これまでさんざん鬼の蔵から宝物を盗み出し、謂われがあるとは限らない鬼批判をしてきた。
さらに、鬼の蔵から宝物を盗む自分たちの行いだけは、正当化し続けている。

いわく、
二次創作や黒flashは文化だ。
企業が金をとるのと、個人が無料でやるのは違う。
etc.etc.

そうだよ。
文化も人の所産だ。
だからこそ、完全でも絶対でもない。
他人の利益と衝突するんだ。

企業と個人では、財力も影響力も違う。
でも、技術はどんどんその間を狭めている。


何かとの比較で「よりマシ」を語るという相対論で自己の「より正しさ」を証明しようとすること自体、ここの桃太郎たちが「絶対善」でない事の証左に他ならない。
俺自身も、立ち上がっちゃってる文化とどう向き合うかという点には頭を悩ませているのではあるが、彼らの意見は、自分たちにとって都合のいい制度が、絶対的(客観的)によい制度だ、という傲慢さを感じるのだよな。


「よりマシ」は、他の「よりマシ」から見れば「より悪い」になる。
桃太郎村は、かつての鬼が島の風景だった、のかもしれない。

桃太郎たちは、いつまでも幸せに暮らせるのだろうか。


とっぴんぱらりの、ぷう。

投稿者 ushila : 01:09 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月05日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(3)「モノ語り」の構造分析

ロラン・バルトに敬意を表しつつ、やや自虐多めの方向で。


記号の役割は、分節である、とは、先に述べた。
分節の働きには、異化と同化がある、とも、先に述べた。

論証をすっ飛ばしてしまう。
現代社会において人間がもっとも分節したいものは何か。

「自分」である。

少なくとも近現代的な自我の概念のある社会において、人間がもっとも分節したいものは、自分自身なのである。


そこで出てくる概念が、「モノ語り」だ。
モノ語りって何よ、という話がまず出てくるわけだが、概ね

モノに仮託して自分自身を語ろうとする行動様式

と定義することができる。

まだわかりにくいな。


要するに、
「○○のショップのオープン記念限定品を持ってるアタシってセレブー」とか、
「○○の限定フィギュアをゲットできる俺って勝ち組だよな」とか、
「やっぱドイツの車はネ、違うのヨ。」とか、
「今の小橋には萌えない」とか、
そのようなことを言って周囲と自分を異化したり、

「これジウ姫と同じピアスなのーーー(はぁと」とか、
「こないだぁー、ヒルズ族の人たちとぉー、合コンしてぇー☆」とか、
「俺、電車男、リアルタイムで見てたんだよなー(ニヤリ」とか、
「俺は法学者だから」とか、
そのようなことを言って、社会的にそれなりに価値を認められている集団や個人と同化しようとしたり、

概ねそのような行動様式が、広義にはモノ語り、と呼ばれるわけである。

例示が、バカ女>くされオタク>俺 という流れになっていることに気がついていただけると幸いです。


どっちかというと、同化作用のほうが多く使われるのかな。


いや、いいんだ。
本当にバーキンや限定フィギュアやポルシェの造形や機能に価値を見出しているのであれば。
(つーか俺、いつかは911に乗りたいと思ってるし)
子を持つ親や教師としてでなくても、自分の意見を言えるのであれば。
俺だって必ずしも、モノ語り的文脈だけでMGFに乗っているわけではない。
あれはあれで楽しい車なのだ。


問題は、モノ語りに使用される「モノ」の価値は普遍的なものではないし、モノ語りによって「同化」しようとする対象との「同化」は全く保証されていない、ということである。
もうちょっと有り体に言えば、ブリちゃんやタイガー・ウッズやホテイと同じ道具を使っていても、同じセンスや同じスキルを保証されるものではないし、また仮にそうであったとしても、その価値が普遍的に認められるわけではない、ということだ。


それでも、現代人はモノ語りをやめない。
要するに、ある特定の「モノ」や「属性」(萌え論における属性ではなく、原義の)を所有している自分たちと、そうでない人々の間に異化された---更に言えば、優越と劣後の---関係を定義しなければ、安心できないのである。
(本当はもうちょっと言いたいことがあるのだが、書いてみたら収拾がつかなくなったので大幅略。あとで別項にするかも)


そうした不安神経症的病理(と、思い切って言ってしまう)は、何もオタクのみの特性ではないということを、ここでの結論というか、これからの足場にしたい。

BGM ALBUMS:
"Golden Tears"(bonnie pink)
"真心COVERS"(V.A.)
"朝顔"(レミオロメン)

投稿者 ushila : 01:55 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月04日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論。インターミッション

記号論がなんでややこしいのか、おぼろげながらわかってきた。

言いだしっぺの一人であるところのソシュールは言語学者なのだが、現代の記号学は言語以外の現象も(人間が一定の意味内容を感得することができる限り)「記号」と捉えることを前提にしている。
その上で言語という記号が他の記号とどのように違うかを滔々と説明するのである。
(結論から言ってしまえば、言語は統辞=文法を持っているから、ほかの記号に比して複雑なことを表現できるので優秀だそうだ)

おかげで記号論は言語学なのか哲学なのか社会学なのかさっぱりわからない、もはや記号論は記号論であるとしか言いようが無い学問になっている、というのがひとつ。
(ちなみに、言いだしっぺのもう一人であるところのパースは、哲学者であり論理学者であり物理学者だそうだ。一応哲学をやった人にとっては、プラグマティズムの祖、と言ったほうが通りがいいかもしれない)


もうひとつは、記号論がその前提に「コード」という概念を置いていること。
ようするに、表面的には同じに見える記号を投げたにもかかわらず、情況によってその意味が変わってしまうということを、前提と言ういわば別次元に置いているのである。

たとえば、「ツマミない?」という問いかけが行われたとする。

これが、以下のそれぞれの情況において発せられていると仮定する。

1.問いかけを発した者が、右手にグラス、左手にビール瓶を持っている。
2.問いかけを発せられたものが、問いかけを発したものに「何かパソコンから音が出ないんですけど」と質問した答えとして返ってきている。
3.キャバクラで、いい感じに酔っ払ってネクタイを頭に巻いた親父が、目の前に乾きものがあるにもかかわらずホステスのお姉ちゃんに据わった目で問いかけている。

それぞれが意味するものは、
1.酒の肴はありませんか?
2.スピーカーの音量調節ツマミはありませんか?
3.乳首をつまませろ

である。
こうしたこと(=情況とかコードとか呼ばれる)を、あらかじめ外に括り出した上で展開しているということが理解できないと、記号論はまったくわからない。

そして。
一部たとえに品が無いのは、今私がすこしく酒(ささ)など召しているという情況のせいです、と言い訳した上で、実はこの文章自体が壮大なエクスキューズであるということを、ここに宣言しておいて、論を再開します。

投稿者 ushila : 23:35 | コメント (0) | トラックバック