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2005年11月19日

教訓のない昔話


記号論シリーズではありません。

鬼退治をすると財宝が手にはいる、という類型の昔話がよくある。

海外で、魔物にとらえられたお姫様を助けにいく話も、大体似たようなものだろう。

こうした類型の物語は、大抵単純な勧善懲悪の物語であって、一説には鬼は疫病などの災厄を表象する記号であるともいう。

つまり、鬼は裏側でみなしごを養っていたりはしないし、桃太郎や一寸法師や頼光四天王はオヤジ狩りで奪った金でクスリをやったりはしない。
(最近のマンガはむしろそういう話が多いね)

要するにここで言う「鬼」は、通常存在しないとされる「絶対悪」を象徴する存在なのであって、裏を返せば「鬼退治」の構造を現実世界にそのまま持ち込むこと自体、ナンセンスだということになる。

しかし、実際に「鬼」にされるモノと、「桃太郎」になりたがる人々は存在する。

官僚と庶民、抵抗勢力と小泉純一郎、フセインとブッシュ、鈴木宗男と辻本清美、自衛隊と(好きな言葉を入れてください)などなど。
現実社会で鬼にされる存在の多くは、程度の大小こそあれ「相対悪」に過ぎない。

「桃太郎」は、「相対善」にしか過ぎない自分の存在を「絶対善」または「絶対の正義」に見せかけるために、相対悪を絶対悪に見せかけるのである。
桃太郎の仮面をはぎ取ったら鬼がでてきた、という、逆「桃太郎侍」的な話は、世の中ゴロゴロしている。


さて。前置きが長くなった。
何の話をしようとしているかというと、モナーをめぐる例の話である。
ここの桃太郎さんたちは伝説の鬼スレイヤーは持っていなかったが、団結の力で鬼に立ち向かい、まあそれなりの戦果を挙げている。
エイベックス鬼は桃太郎の村から大事な宝物を盗んだから、まあ悪いんだろう。

しかし。
ここの桃太郎村は、これまでさんざん鬼の蔵から宝物を盗み出し、謂われがあるとは限らない鬼批判をしてきた。
さらに、鬼の蔵から宝物を盗む自分たちの行いだけは、正当化し続けている。

いわく、
二次創作や黒flashは文化だ。
企業が金をとるのと、個人が無料でやるのは違う。
etc.etc.

そうだよ。
文化も人の所産だ。
だからこそ、完全でも絶対でもない。
他人の利益と衝突するんだ。

企業と個人では、財力も影響力も違う。
でも、技術はどんどんその間を狭めている。


何かとの比較で「よりマシ」を語るという相対論で自己の「より正しさ」を証明しようとすること自体、ここの桃太郎たちが「絶対善」でない事の証左に他ならない。
俺自身も、立ち上がっちゃってる文化とどう向き合うかという点には頭を悩ませているのではあるが、彼らの意見は、自分たちにとって都合のいい制度が、絶対的(客観的)によい制度だ、という傲慢さを感じるのだよな。


「よりマシ」は、他の「よりマシ」から見れば「より悪い」になる。
桃太郎村は、かつての鬼が島の風景だった、のかもしれない。

桃太郎たちは、いつまでも幸せに暮らせるのだろうか。


とっぴんぱらりの、ぷう。

投稿者 ushila : 2005年11月19日 01:09

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