« 2006年06月 | メイン | 2006年08月 »
2006年07月17日
マルイのゆかたダンス
ある意味投げっ放しな和洋折衷テイストがたまりません。
m-floなのはCMでも言ってるから気がついてたけど、
ヴォーカルは日之内絵美とryohei(山本領平)ですか。
それにしても日之内絵美という人の活動が謎だ。
キリン氷結のCMとかでも非常に魅力的なヴォーカル&ダンスを披露しているのだが、
録音物のリリースされる気配がまったくない。
調べてみると、所属レコード会社(って言うのか?)は、☆タカハシタクのところ、
ってことらしいし、m-floがああいう活動スタイルになってる以上、
必ずしも彼女の活動も別チャンネルである必要はないということなのかなあ。
よくわかんないので、誰か詳しい人、教えてください。
マルイのゆかた
日之内絵美オフィシャルサイト(artimage)
tachyteric records
つか後ろ二つのサイトの投げっ放し具合も気になる・・・。
投稿者 ushila : 15:14 | コメント (0) | トラックバック
2006年07月13日
雑誌「GiRLPOP」休刊 と わたくし。
だいぶ旬をはずした話題と言うか、
世間様にとっては物凄くどうでもいいので、実は旬とかあんまり関係ないんじゃないかという話題。
まずもって、ガールポップっていったいなんだったんだ、
と言うところの総括からはじめないといけない。
ガールポップと言う言葉自体、件の雑誌と切っても切れないものであったから、
大雑把に言えば、そこに掲載される歌手イコールそれ、
ということになる。
俺個人の話で言えば、ちょっと目を放した隙に見事なアイドル雑誌に変貌していて
ぶったまげたことがあるわけだが、
雑誌および言葉の誕生そのものが、いわゆる「アイドル冬の時代」の中でも
「厳冬期」とでも言うべき90年代前半だったということに着目すべきだろう。
それ以前の「アイドル」という言葉との対比で言えば、
シンガーソングライター、または音楽以外の活動を基本的にしない、概ね20代のシンガー
ぐらいの定義というか、くくりだったように思う。
わりと商業的成功を収めた人を列挙すれば、谷村有美、加藤いづみ、井上昌己、
(特に後期の)森高千里あたりが該当するだろうか。
(永井真理子は位置づけ的には「前史」に当たるらしい。
鈴木祥子は微妙にマーケットが違うのか、ほとんど取り上げられることがなかったと記憶している)
実際には元アイドルが「アーティスト」に転向するとガールポップのくくりに入るとか、
某グラビアタレントが歌手活動をしてたときにはこっちのくくりだったとか、
いろいろとあいまいだったり、正直便利使いされてたりした部分というのは無きにしも非ずで、
いまさらマジメに語るに足りるのかというとちょっと鼻白む部分もあるのだが。
当時のガールポップも、
実は支持基盤としてはアイドルポップスの聴取者層をそのまんま内包していたので、
その後のガールポップとアイドルポップスがほぼ同義になっていった流れはある意味必然だった
のかとも思わなくはないだが。
実際、当時の別の流れには「渋谷系」があったと思うんだけど、
ムリヤリそことの関連で言うと、ミディアムとアコースティックに一定の評価を与えたとか、
批評的な(批判的な、ではない)リスナー層を作ったとか言う意味では、同じような役割を
果たしたと思うんだよね、俺は。
当時のサブカル君たちが渋谷のタワレコやHMVでやってたことを、オタク層は秋葉原のヤマギワや
ラオックスでやってました、みたいな。
その後のモーヲタの語り口とか、俺が好むアーティストのファン層の物言いなんか見てると、
明らかに当時ガールポップに踊らされていた(自己批判を込めて)奴らの匂いがして、
あーみんなここに来てたのね、みたいなことを思ったりする。
こっから先は闇に向かって刃物を振り回すような文章になるが、
一般的なポップス聴取層は、音楽にはバラードとアップテンポしかないぐらいに思っているのでは
あるまいか。
だから、アップテンポ(ヒット)>バラード(大ヒット)>アップテンポ(大ゴケ)を経て、
バラードしかシングルリリースしなくなって、才能を痩せ細らせていった歌手には枚挙に暇がない。
そういうヤツは「壮大」と「冗長」、「賑やか」と「うるさい」の区別も付かないし、
「意欲作」と「なんか変わっちゃった」の差もわからないから、
「新しい」とか「独特の世界観」とか「元気」とかキャラ付けされた歌手は、そこから一歩も
動けなくなって途方にくれる。
小泉純一郎が「Endless Rain」をお気に入りと言い放つのは、結局Xジャパンの他の楽曲は、
彼の理解の範疇にないことをひた隠しにしてのプロパガンダに過ぎないんじゃないかと思う。
(サブカル文化人が「ぼくんち」を引いて、サイバラも好きな僕っていいヤツでしょ、みたいな
ことを言うのと同じ文脈)
オレンジレンジが三絃の音なんかサンプリングしてるのを聴くと、
みんなこういうの好きでしょ的な浅知恵の産物なんではないかと疑問を感じる。
って言うかお前ら違うだろうよ。
胡屋十字路あたりでガイジンひやかしたり、北谷のフリマでおネエちゃんナンパするほうが
好きだろうよ。
そんな状況で商業的に成功できるのは、
ある特定の記号が入っていれば「新しい」と感じるリスナーや、固定層を相手に粗製濫造を
繰り返すメーカーやアーティストだけなんじゃないのか。
(あ、ちなみに、たまにワケのわからない冒険をしてくれる某男性アイドル事務所については、
素直に感心しています。黒なし。)
そういえばガールポップと同じような言葉に「オレソロ」(男性ソロアーティスト=「俺のソロ」)
ってのがあったけど、こっちはぜんぜん定着せずに消えちゃったね。
「メガネロック」てのも、一時言われてたけど、その後どうなったんだろうか。
そんなわけで。
文化の活力はその多様性に立脚している。
とは、自分自身もう何年前にいった言葉なんだか忘れてしまったが。
たまには大きな声で「俺はここにいるぞ」と叫ぶことが、ちょっとでもJ-POPシーンを
面白くすることにつながるんじゃないか、と、コレを期に改めて思ったのである。
投稿者 ushila : 02:06 | コメント (0) | トラックバック
2006年07月09日
「Switched-On Journey」(東京エスムジカ)
うちの会社がやってる無料ライブに出演してくれるというので、
客として観覧。
「風の行方」で涙腺が壊れてしまって、
そのあとの「ハッピーエンドレターズ」「始まりに向けて」の間中、
はらはらと落涙するキモイ三十代独身男になっていました。
いや、もう、なんか凄いぞ。あの感情訴求力は。
それだけが彼女たちの武器ではないと知っているけども。
で、帰りにアルバム購入。
すみません。まだちゃんと聴いてません。
See-Sawは今でも好きだが、その節は個性を否定するような書き方をして正直スマンカッタ(土下座)。
投稿者 ushila : 23:35 | コメント (0) | トラックバック
映画「嫌われ松子の一生」
複雑怪奇な映画だ。
見終わってから1週間ぐらい、感想がまとまらなくて非常にもやもやした。
ストーリーラインの部分と、映像表現の部分は別に語ったほうがいいような気がする。
まず映像表現の部分について話をすると、
コレはヒップホップの方法論で作られた映画なんではないか、と思うのである。
この映画の惹き句のひとつである「豪華キャスト」の平均登場時間が何分なのかわからないが、
見ているほうの印象としては「あっという間に」退場する感じだ。
ある意味では、チキチキとサンプリングされる出演者たち、と言った雰囲気なのである。
ソープランドや刑務所と言う、ディープなシーンは音楽にあわせて、
あたかもプロモーションビデオのように展開する。
いわゆるメロディーパートってヤツだろう。
で、せりふはわりと早口と。
残念ながらライムにはなってないように思うが、まあラップだねってことで勘弁してください。
で、そんなヒップホップな全体像(って我ながら強引だな)が内包する、
ストーリーの背骨のような部分に思いを馳せるとだ。
コレは「愛したい人」の物語ではなく、「愛されたい人」の物語だな、と、強烈に思うのである。
もっといえば、「愛されるための方法論として、愛するということを選んだ人」の物語、
っていうのかな。
(正直、光GENJIにファンレター書いて、返事が来ないとキレるくだりはドン引き)
そういう意味では、ストーリーラインとしては非常にクラシックだな、と思う。
愛されたいと思うのは人間の根源的欲求のひとつのような気がするのだけど、
それは果たして人間的な感情であるのかというところでまたひとつ考えたりもする。
で、一週間ぐらい感想が出てこなくて悩んだ、という話は冒頭にも書いたのだけど、
その後すぐに思い当たったのが、鈴木祥子の「忘却」だった。
というわけで、ご本人のセルフライナーを紹介させていただいて、この項はおしまい。
投稿者 ushila : 23:05 | コメント (0) | トラックバック
小橋建太手術成功。
手術前はいろんなことを考えていて、
その中でも一番大事なのは、
小橋って人は負け続けて今の地位を築いた、と言うことなんだと思っている。
初対戦の選手の胸板に手形付けて、ラリアットぶち込んで激勝するのが
小橋だと思ってるヤツはグランド10周。
ブッチャーや馬場さんに勝った事はないし、
ウィリアムスにもシングルでは勝ってないんじゃなかろうか。
ハンセンにはダイビングショルダーを撃墜されたり、
トップロープから叩き落とされたりとひどい目に散々遭わされているし、
(だから小島がハンセンからラリアットを伝授された、とか言うと、
何をヌルイことを言っているのかと思う)
というわけで、何が言いたいかと言うとだ。
休養前と同じメカ小橋ぶりで戻ってくる必要性はどこにもありませんよ、
と言う話なのである。
よいよいになっちゃって
アルゼンチンバックブリーカーの体勢になっただけで「おおっ!!」と
声援の上がるレスラーになっても、それはそれで非常に正しいし、
体重が減った分ひざが絶好調になっちゃって、
リングに颯爽とジャンピングイン、とか言う話だと、非常に素晴らしい。
ニュースで転移が云々と言っていると言うことは、
たぶん悪性だったということなので(っていうか病理の結果まだ出てないだろ)、
どうしても再発とかそういうことを考えんといかんのだろうが、
手術が成功だったということは、小橋はリングに戻ってくるということだ。
戻ってこられると言うことは、もうそれだけで勝利なのだ。
いや、もう、ぶっちゃけ、あとは自分のためだけに戦ってくれればいい。
それが一番楽しそうだ。俺にとっても。