« 2006年11月 | メイン | 2007年01月 »
2006年12月29日
2006年善光寺様賞
このネタ自体、もうわかる人も少なくなってるんだろうなあ、と思いつつ、毎年企画倒れを続けているこの賞ですが、今年は大発表いたします。
大賞
ドラマ「アキハバラ@DEEP」
久しぶりにオタク力を発揮して見てしまった映像作品。
はっきり言って、今年はこれに賞を差し上げたいために発表したと言っても過言ではない!!
そして、これ以上誉めようとしても、ただのオタクの繰り言になってしまうので、詳細は過去ログ嫁。
次点は「やわらか戦車」かなぁ。
音楽賞
「ハッピーエンドレターズ」(東京エスムジカ)
今年の歌じゃない?
・・・ごもっとも。でもいいんです。俺が聴いたのは今年なんだから。
久しぶりに私の涙腺を破壊した超名曲。
アルバム「Switched on Journey」を買って聴け。
次点は、超豪華アーティスト共演の「嫌われ松子の歌たち」。
映画は正直はてなマークいっぱいだったが、こっちは気分いいぞ。
ゲーム賞
該当なし
クライマックスUCもACE2も、もう一段階深くハメてほしいゲームだったなと。
CM賞
ソフトバンクモバイル
最近やってるアップルのCMと、ギリギリまで悩んだが、コンスタントに太いネタを投下し続けたことに経緯を表して。
最優秀女優賞
木南晴夏(ダンドリ・アキハバラ@DEEP)
いずれも出番は多くなかったが、精密な演技で見事に俺のツボ直撃。
若手女優界の小宮山悟と呼びたい(笑)。
次点は戸田恵梨香(ギャルサー・たった一つの恋)、新垣結衣(ギャルサー・マイボス マイヒーロー)、松嶋初音(アキハバラ@DEEP)。
小阪由佳は新型女優なので選考対象外(笑い)。
おおかたの予想(誰の?)では大本命だった堀北真希は、アカネのコケ具合がたたって選外。
ちなみに、アキバを度外視した場合の最優秀ドラマは「弁護士のくず」と「アンフェア」。
最優秀男優賞
館ひろし(功名が辻)
あぶなが様最高!
冷静に考えると、蹴られても投げられても演技が揺らがない光秀も見事。
スポーツ賞
丸藤正道(プロレスリング・ノア)
丸藤は、久しぶりにノックアウトプロレス以外の美学を言葉と実践の両面で見せてくれたレスラーだと思う。
グッドルッキングだしね。おでこは微妙にうわなにするやめろはなせ
年間を通じてコンスタントにネタを供給してくれたオシム閣下には是非とも何か差し上げたいが、よくよく考えると現職で結果になるようなものはなんらお示しいただいておりませんので、次点と言うことで。
エルコンドルパサー記念 善光寺様賞年度代表馬
ソングオブウインド(菊花賞)
やっとエルの仔もG1が取れてめでたい限り。
しかし、菊花賞馬ってダンスみたいな例外を除いては、種牡馬になって活躍してない……。
そういえば、ディープの初年度配合相手にメジロドーベルがいるらしいが、
ある意味それはメジロさんちの大失敗パターンorz
特別賞
鈴置洋孝
説明不要。
ブライト・ノア大佐に、総員敬礼!!
投稿者 ushila : 22:15 | コメント (0) | トラックバック
mixiって登録しただけでほとんど使ってなかったんだけどさ。
mixiミュージックってヤツをインストールしてみた。
いつもグダグダと書き散らかしてる音楽エッセイを補完する意味では、いいツールかもしれないね。
というわけで、ミクシ経由でここを見てる人は、そっちも気にしてみてください。
投稿者 ushila : 21:23 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月24日
いえーい
もやしもん4 限定版ゲットー。
投稿者 ushila : 19:36 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月15日
想像力の問題でないとしたら。 の続き。
下のエントリーから読んでください。
かつて「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」と言った政治学者がいた。
この言葉に言う「権力」とは、もちろん公権力を指している。
だから、近現代社会制度の発展は、公権力に対する監視システムの構築・強化の歴史であったともいえる。
(もちろん、それでも時折、公権力は暴走する。アメリカとかブッシュとか金正日とかブッシュとか)
一方。
権力とは公権力のみに限らない。
一定の組織・社会が存在する場合、そこには必ず権力と権力者が存在すると考えて、ほぼ間違いはない。
そして、公権力と近現代社会がどのように関わってきたかを鑑みれば、組織体系が未熟であればあるほど、組織内の権力に対する監視体制も未熟であると考えて良いだろう。
いじめ問題などは、未熟な子供が、気に入らない相手が居るとか、ちょっとムシャクシャするという問題を、自らにそれを解決するための無限の権利があると思いこみ、未熟かつ独善的な判断と、稚拙かつ過剰な方法でそれを解決しようとする典型例ではないか。
そのほかにも、ワンマン社長、DVをする親、過剰なセキュリティ管理を試みるシステム管理者、「昔から決まってますから」の一言で不合理な規則を押しつける町内会長、などなど。
局所的な「権力の暴走」は、現在も常に発生している、と考えた方がよいだろう。
「権力」は一応、組織や社会における一定の決定権、というような意味合いがあるのだろうが、それが単純な「力」……最低限、二者間で作用する……物理的、観念的の別を問わず……となれば、なおさらである。
法律や制度による解決の危険性をあげつらうならば、制度の枠組みの外にある「力」が、常に過剰や不足や方法論の誤りと隣り合わせであるという、「危険な曖昧さ」についても、同じように警戒すべきではないのか?
つまり。
目の前に厳然として発生している倫理に反する事態に対し、それを解決するための法律が存在しているにも関わらず、
「解決は倫理に委ねるべきだ。
法律は適用してはならない。」
と言うことは、もはや破綻した論理と言うより他無い。
適用基準が必要なら、さっさと作れ。
より良い規定が必要なら、今救える全ての被害者を救済してから、したり顔で議論すればよい。
なによりも、死んでしまった被害者がいる。
もっともらしい理屈で自分の責任を避けてる場合じゃないだろう。
あんたの倫理は。
おまえの正義は。
道徳は。良心は。思想は。信条は。
モラルもスジも道理も常識も確信も、全部まとめて持ってこい。
それは全部、本当に正しいのか?
投稿者 ushila : 22:28 | コメント (0) | トラックバック
想像力の問題ではないとしたら。
もうちょっと厳しい言葉を選ばなければならないのかもしれない。
いつまで経っても無くならないいじめ問題。
それぞれの理由があるのだろう。
しかし。
個人のモラルや道徳や常識、あるいはセンスといったものが、この問題を解決する拠り所となると言う考え方自体が、もしかしたらものすごく甘いんじゃないか、と、考えざるを得ないのである。
法学用語として「規範」という言葉を用いる場合(あるいは、広義に「法」と言った場合)、そこには道徳や倫理といったものから、憲法や実体法、各種手続法(訴訟法など)までのすべてが包含されている。
理論上は、とか、観念上は、と前置きすべきなのかもしれないが、本来、道徳や倫理と法律は、地続きのものなのである。
(英米法系の国では、よりその傾向は強い)
だから。
道徳や倫理で全ての問題が解決できるならば、法律(成文法)は、元来必要の無いものである、と言うことができる。
しかし、実際には。
道徳や倫理は、きわめて観念的なものである場合が多い。
あるいは内容が明確なものであるとしても、それに反した場合の被害の救済方法、行為者へのサンクションについては、適用の基準や手段、範囲が曖昧である。
だから人間は、倫理を人に遵守させる様々な方法を考案した。
倫理に背いた者がどのような目に遭うかを説いた伝承や神話。
倫理は神が定めたものであるとする宗教の教義。
主に禁止事項を明文化した掟。
そして、
義務・権利・禁止事項、違反行為に対する罰則と救済措置、
さらにその違反行為を速やかに発見する制度と、措置の適用手続き、
そしてそれを運用する人間の権限
(実はこれも義務と権利と禁止事項からなる)、
さらにはそれら全ての創設方法を定めた、法律というシステム。
これらは全て、倫理を母胎として、倫理を補強するために産み出されたものである。と、言い切れる。
逆説的に言えば、倫理とは人間の行動の全てを規定しうる大きな存在であるが、補強されるべき脆弱な存在でもあるのだ。
「法律は正義の影だ」と、漫画ハンサムウーマンの主人公、眞行寺麻沙美は言ったが、法律のあるべき姿を喝破した、けだし名言だと思うのである。
さて。
特に近代の法律制度の特色は何か。
まず、自らの創設の方法を、神話や伝説というブラックボックスから引きずり出し、明文化してしまったこと。
(中近世以前の君主制度では、君主が定めた、という以上の根拠付けは存在しないので、ブラックボックスから脱却できていないし、時として倫理との連続性も失われている。
現代に於いても、密室というブラックボックスに引き籠ってしまう困った傾向は洗い去れてはいないのだが……)
次に、全ての人間に、
・してもよいこと(権利)
・してはならないこと(禁止事項、または不作為義務)
・しなければならないこと(義務、または作為義務)
を割り振り、人間の行動を3つに類型化したこと。
特に、法律を取り扱う側の人間にも、同じように権利と義務と禁止事項を定義したことの意義は大きいと、俺は考えている。
権限という言葉は、文字どおり「権力に限りがある」ことを指し示す。
逆に言えば、どんな権力者であっても法律制度という枠組の中にいる限り、無限の権力を所有していることはあり得ないのである。
一方、法律制度の枠の外にいる(もしくは、自らをそう定義づける)権力者や「権威」は、時として無限の権力を振るうことがある。
マスコミは思想と良心に基づいて、猟奇事件の犯人の過去や周囲を徹底的に調べ挙げ、いかに異常な人間であるかを白日の下に晒す。
いわゆる暴力組織は、信条や義理、時にはメンツやプライドのようなもののために、刃物や拳銃、角材や火炎瓶を振るい、敵対する者を傷つけ、時には殺害し、あるいは何の関係もない者に流れ弾を命中させる。
(つづく)
投稿者 ushila : 22:26 | コメント (0) | トラックバック
Winny判決。
そのものについては、判決文を見ていないから今すぐコメントはしない。
西村博之氏(ひろゆき)のコメントが、日刊スポーツのサイトで紹介されていた。
この手の問題を語るときに、包丁やスピード違反にたとえる論法は、わかりやすくってもっともらしいんだろうなあ、とは思う。
同じ批判を繰り返すのは好きじゃないが、同じ理屈にいつまでもしがみつかれていると、浅薄なのか擬まんなのかと勘ぐりたくなる。
(たぶん、正解はまた別)
速度規制は、通行の安全を期するために行われているものだ。
一定の条件下において定められた速度以下で通行することは、不測の事態に対応する上で効果的であり、もって交通事故を未然に防げますよ、という規定である。
一方、著作権法は、基本的に著作者という個人の権利について定めた法律である。
言ってみれば、「権利」という見えない身体の大きさを定めたものだ。
その被害の程度が、ドアがぶつかった程度なのか、大型トラックにはねとばされた程度なのかはわからないが、既に事故が発生している状態を想定した方が、今起きている状況に近い。
最初に反論した人間に言葉足らずの部分があったにせよ、スピード違反と権利侵害を「法令遵守」という同じくくりの問題として語る論法自体、最初から無理がある。
簡単に言えば、事故の程度も被害者の怪我の状態も、さらに被害者がどんな人かもわからない状況で、加害者が何も言わずに、または被害者をなじるような言葉を投げつけて立ち去ったときに、それを見ていた第三者が常に被害者に対して「しょうがないよ」とか、「あんたが悪いよ」と言うことが、果たして根源的な道徳や倫理に遡っても、「正しい」ことと言えるのだろうか。
一方。
Winny=包丁という論理についても、やっぱり俺は納得がいかない。
Winnyが開発された当時、先行するP2Pファイル交換ソフトが、実態として著作権侵害の温床になっていたことは厳然たる事実だ。
ぶっちゃけ、gnutellaでプライベートビデオを交換しよう、という話は、俺は聞いたことがない。
実際にそこで流れていたファイル数の比率も、まあ似たようなもんだろう。
その状況において、「より匿名性の高いファイル交換ソフト」とやらを開発すればどうなるか。
少なくとも被告にはその結果を予見するに十分な知識があったし、あるいはその結果を企図した、という見方を差し挟む余地は、十分にあると考える。
被告本人はDL専用にカスタマイズされたクライアントを使用していた、という話も、この視点を補強するに足りると思う。
検察が起訴事実として「著作権制度の崩壊を企図」云々と本当に言ったのかは別として、自らの何らかの利益を企図する目的は在ったんだろうし、そういう意味では、利用者との間には、文字通りの「共同成犯」関係があったのだろう。
ユーザー側も十徳ナイフを買うぐらいの気軽さで使ってみたのかもしれないが、一応、包丁としても使える人斬り包丁、というのが、やっぱりWinnyの正体なんではないだろうか。
……。
ここまで考えて、被告の記者会見の様子を伝える記事を読んだ。
またファイル交換ソフトの未来とP2P技術の未来が同一視されている。
別個独立とは言わないが、ファイル交換ソフトはP2P技術の一つの応用方法にすぎないにも関わらず、だ。
効果的にP2P技術の研究を行うにはファイル交換ソフトとして実験するのが、検証を効果的に行う上で有効と考えた、にせよ、
他の応用方法が考えつかなかった、にせよ。
比較論や択一論で考えるには、結果として発生した(または、発生すると予見された)損害の程度が膨大すぎるのではないだろうか。
どこまで行っても被告は、「犯人」以上の者ではないのだと、俺は考える。
確信犯か愉快犯か、はたまた全く別の何かなのか、までは知らないが。
最後に。
ここまでぶち上げると、「著作権なんか所詮フィクションだから」という反論が来ると思う。
そのとおりだ。
もっと上のレベルで、「法律はフィクションではない」とか、「社会科学は疑似科学ではない」と断言できる法律家に会ったことは無いし、仮に居たとしてもそいつは極め付きのロクデナシだと断言できる。
ある社会において何らかの問題が生じたときに、ある制度または法律が存在しないためだ、と推論することはできる。
また、その問題を解決するために一定の制度または法律を設けたときに、その効果を測定することはできるが、その制度を設けなかった場合にどうなったか、とか、その制度を廃止した場合にどうなるかということを、反証実験することは事実上不可能に等しい。
だから、社会科学は純粋科学たりえない。
(共産主義は崩壊した、と言われるが、実際「世界共産革命」とやらが成功したときに、どうなっていたかなど、誰にもわからない)
しかし。
純粋科学でないということが、くだらないということと果たして同義だろうか。
ついでに言えば、「ファイル共有に対して寛大な著作権制度」(と、ここではミクロに扱う)が成立したとき、それが今より良い社会をもたらす、と言うこと自体、あくまで仮説であり、フィクションに過ぎないということを、論者は認識しているのだろうか。