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2008年01月24日

QJ「Perfume ~アイドルの意味を回復する3人~」

楽しく読んだ。
perfumeのなんも考えてないようでいろいろ考えてるらしい部分とか、
中田ヤスタカの根性良さそうなところ(ポーズかも知んないけど、逆にこのふてぶてしさが安心するよね。この人まわりに踊らされそうにないぞみたいな)とか、なかなか興味深かった。

しかし、著名人からの応援コメント、みたいなコーナーを読んでいて引っ掛かりを覚えた。
別にGAMやベリーズ引き合いに出さんでも。と。


この話をするためには、本当はいろいろな前提が必要なのだが、
その辺を全部ぶっちぎって言うと、perfume自身、実はつんく~娘。~ハロプロ的なフェーズから大きく飛躍して存在するものではない、ということは、日本歌謡史における歴史認識の問題としてハッキリさせておきたい。


「モーニング娘。とは何か」ということについて、誰も総括してくれないので困るのだが、
少なくとも黄金期の娘。というのは、アーティストの成熟と各パート(作詞・作曲、編曲、振付、etc)を受け持つ作家の作家性が、うまくかみ合った時期であった、ということだけは言えるのではないかと思う。

で、その時期に娘。が提示したことというのは、
「ポップス(あるいは広義の「歌謡曲」=日本で歌われる大衆歌曲)は、楽しければ何でもありなんだよ」
という事実だったのではないか、と思うのである。
(「本物っぽいもの」「本物とされるもの」が多く存在した時代だけに、このテーゼを再提示した意義は大きかったと思う)


もともと「何でもあり」と「キッチュ」は、歌謡曲の底流に脈々と流れていたものだろう。

だからこそ東京ブギやお祭りマンボやチャンチキおけさが成立したわけだし、
(クレイジーキャッツの演奏が実はやたら難しいらしい、という話も聞いたことがある)
サザンの(というより桑田ソロにその傾向がより強い)本気なんだかネタなんだかわからないケレン味たっぷりの姿勢も容認されるわけだし、
娘。のお馬鹿ディスコ、お馬鹿ファンク路線も成立していたわけだ。


でと。
娘。がLOVEマシーンや恋のダンスサイトあたりで提示した「アイドルはここまでやっちゃっていいんだ」を、音楽的な意味で硬派にぶちかましてしまったのが、perfumeであると。
(近いことをやってたのはSPEEDかなあ?他には。逆に、娘。に近いことをやっていたのはZONEだと思う)

要するにラブマのバカ騒ぎとか、「恋愛レボリューション21」のラップダンスとか、「ザ☆ピ~ス」のサビ裏で妙にいい音で鳴っているホーンとかも、「エレクトロワールド」の後ろでズコズコ言ってる低音シンセも、本質的には「何でもあり」に内包される、同じものだと言ってしまいたいわけである。


で、だ。
より新しく「見える」ものが出てきたときに、今度はperfumeとの対比でそれを褒めるんだろうなあ、そういう人は、と思う。
製作側のコントロールの強弱などは、問題そのものではなく、「つまらないもの」を作ってしまう要因のひとつに過ぎないのだが。

通人を気取るつもりもないが、perfumeはこれからカタギさんの評価にさらされる段階に入ってくる。
で、そのカタギさんたちを掴んで離さないために必要なものは何かと考えるわけだが。

そんなもん、わかってたら一山当ててるよね(笑)。

投稿者 ushila : 2008年01月24日 18:53

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