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2008年12月24日
現代J-POP考(4)名曲という罠。
このテーマで、もう何年も前から書いちゃ消し書いちゃ消ししている。
少なくとも大衆歌曲の分野で、「名曲」とは何なのか、という疑問が、ずっと頭を離れない。
要するに、それは「過去にいっぱい売れた、おぢさんたちが過去を懐かしがるときに引き合いに出されがちな曲」って事なのではないだろうか、と。
……いやあのね。むしろ、俺はアレだよ?
古いからダメってことも新しいからいいってこともないと思ってるよ?
しかし、正味な話、「名曲」ってのは、発表された時点でも、リスナーが聴いてる今という時点でもない、どこか一時点で(誰かに)つけられる呼称である、というのは言っていいと思う。
何が言いたいかと言うと、「名曲」と言う称号は、創作(あるいは発表)された当時の評価も、それを聴いている現代のリスナーの評価も反映されていない虚ろなものになっている虞を、常に内包しているのではないか、ということだ。
「名曲」や「名作」と言う称号を頼りに、過去の作品に触れるきっかけを作ること自体は、たぶん悪くない。
しかし、いつだか知れない過去の時点で、誰とも知れない誰かが「名曲」「名作」と名づけた作品以外は鑑賞する価値が無い、とするならば、そりゃ違う。断じて違う。大いに違う。
現代のアーティストが生み出している楽曲にも「名曲」に匹敵する作品は存在するだろうし、残念ながら歴史に淘汰されてしまったアーティストの作品にも、商業的に成功しなかった以外には「名曲」に見劣りしない楽曲は多くある。
だから、1曲の「名曲」を聴くよりも、100曲の駄作かもしれない曲を聴くことのほうが意味があると、俺個人は思っている。
ましてや、「大衆」から「分衆」さらには「個衆」という表現すら生まれた20世紀末から現代につながる時代、その気になれば自宅でレコーディングからトラックダウンまでできてしまう現代において、そこで発表された全ての楽曲を聴き、「大衆」にとって納得のいく評価ができる「誰か」など、存在しうるべくも無い。
(「大衆」がいない以上、もはやパラドックス的でもあるのだが)
そしてその「時代」は、たぶん「J-POP」という言葉が生まれた時代とほぼ一致する。
つまりだ。
これだけ名曲・名作と言う言葉をケチョンケチョンにけなしつつ(けなしてるつもりも無いんだけどな)、最後の最後に寺山修司先生に頼ってしまうのは我ながらどうかと思うが、書は捨ててもきちんと本棚にしまってもいいから、町へ出よう。
そこで出会った楽曲を懐に抱え込んでニヤニヤするのも、ひとつの大衆歌曲の楽しみ方だと、俺は思うのだよ?
投稿者 ushila : 2008年12月24日 20:37
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