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2009年05月26日
で、被害者救済って何なのさ。論。
ごくごく大そもそも論的な話なので、いつものデンパだと思って読み飛ばしてくださっても結構よ?<安いツンデレ
被害者救済を取り巻く議論が、今ひとつよくわからない。
というか、「被害者救済」と「犯罪の厳罰化」と「司法への市民の参加」、の3つは、直接結合しないように思うのだ。
「被害者救済」と「犯罪の厳罰化」を結びつける立場は、法制史的な立場(被害者の人権擁護の観点から刑罰の軽減傾向があること)を論拠に(つまり、バランスを取り戻すために被害者の声を司法に反映すべきだ、という主張を)する。
極論、被害者が加害者に求める刑罰は、常に極刑(あるいは適用される条文に定める最大刑)だと言えるわけで、「被害者救済」的な立場で「犯罪の厳罰化」を求めるのであれば、被害者は加害者に最大形が科されることによってしか救済されないことになる。
「犯罪の厳罰化」と「司法への市民の参加」を結びつける立場(陪審員制などもこのカテゴリだが)については、そうして作られた制度は、いろんな意味で正常に機能するのかね、と思う。
っていうか、どうなったら客観的に見て「成功」なんだろうか?
「被害者の救済」と「司法への市民の参加」を直接結びつける論調は聴いた事がないが、演繹的には結合されているのだろう。
っつうか、まず被害者は市民の一部だという考え方があって、被害者に共感できるのは専門家ではなく、市民であると。
で、その共感が被害者の救済につながると。
……法廷じゃなくて、どっか他所でやってくれって感じだ。
俺は専門家のなりそこないだから、初手から市民感覚なんか持ち合わせちゃいないんだろう。
法律まわりの議論になると、教科書的論理になってしまうのは自覚しているのだけれども。
まず、犯罪被害者の救済と犯罪の厳罰化が直結しているかのような主張には、上記のとおり違和感を感じる。
刑罰制度とは何か、というそもそも論をぶつまでもなく、個別の事例において妥協点がないからだ。
(犯罪者の人権擁護とのバランス云々という、ディベート的というか市民活動的というかプロレス的な頭でやってんならぐうの音も出ないけどさ)
犯罪被害者の救済、という言葉は、本来多岐にわたる対策の必要性を指すと思う。
加害者に損害賠償能力がない場合。
被害者の主に精神的な後遺症への対応の整備。
被害者がスキャンダリズムに塗れないための対策。
そうした対応・対策の必要性が、むしろ「犯罪の厳罰化」と「司法への市民と被害者(遺族)の参加」という一点への収斂によって、犠牲にされていると思うのは俺だけだろうか。
……で。まあ、何だ。
全然別のことも思うんだよ?
「近代的自我」ってヤツは、要するに嘘っぱちだったんではないか、みたいなね?
ありゃ要するにキリスト教的世界観で生まれたフィクションであって、石打ちと牛裂きと鋸引きの世界のほうが、実は人間の感覚に近いんじゃないか、って言うね?
ここまで書いていくと、いささか思考が絶望(not先生)に蝕まれているのが自覚されてくるので、そろそろ撤収。
そのうちちゃんと整理して書くかもしれないが、そのときはデンパが末期になってるかもしれないので、逃げる用意を怠りなく。
投稿者 ushila : 22:12 | コメント (0) | トラックバック
ところで「被害者学」って学問があるんだけどさ。
俺が概要を教わったときには、「犯罪被害者の傾向から、犯罪発生の予防と対策を図る」みたいな、(いい意味で)冷徹な学問だと思ってたんだけれども、世間的には被害者救済に軸足移っちゃってるんですか? 昨今?
被害者学が守るのは、主に「まだ被害者になっていない人」だと思い込んでたんですが。
まあ、今思えば教授のトラップくさい、「とある性犯罪者が狙った女性には、「髪が長い」という共通する特徴があった」云々はさておいて、被害者の類型から犯罪抑止の対策を立てるっていうのは、帰納法的に正しいと思うんだけどね。
最近の例だと、
「キャッシュディスペンサーの周りで電話をしている人は振り込め詐欺に引っかかる直前かもしれない」
「独居老人はリフォーム詐欺をはじめとしたセールス商法に引っかかりやすい」
なんていうのは、被害者学的観点のヒット作なんじゃないかと思う。
(女性専用車両はよくわからん。
っていうか、「戸締り用心火の用心」的な、素朴な「防犯」論に近づいていくと、この話はどんどん薄まるんだけども)
で、被害者救済が現在の被害者学における主要な研究テーマになっているのならば、それはそれでわからんでもないわけなので、別途勉強することにするのだけど。
って言うか、被害者の類型から見る犯罪予防学的見地と、被害者やその家族・遺族の多分に精神的救済を目指す見地というのは、同じ研究者の研究課題としては成立しないだろうし、同じ学会で研究発表を行う意義というのも俺的には見出しにくいよ?
投稿者 ushila : 22:11 | コメント (0) | トラックバック
2009年05月25日
Foolish Game(ECHOES) または「拝啓ジョン・レノン」(真心ブラザース)
ときどき考えることがある。
カミサマというようなものが存在するとして、世界中の人をなんとなく「似た者」順に並べて、すごく長いベンチに座らせたとする。
俺の両隣には誰が座って、あの人やあの人は俺のいくつ隣りに座ってるんだろう。
まわりを見回しても知り合いが誰もいなくて、ものすごく不安になっちゃったりするんだろうか(笑)。
別に、60億分のいくつの順位みたいなものを手に入れて、安心したり絶望したりしたいわけじゃない。
何かと毀誉褒貶のかまびすしい世の中だけど、そこで「神」だと持ち上げられてる誰かさんや、鬼畜のごとく、あるいは蛇蝎のごとく忌み嫌われる別の誰かさんは、俺とどれぐらい違うところに居るのかな、と思うのだ。
どんなに気をつけて自動車を運転していても事故に遭うことはあるし、そうなれば被害者になったり加害者になったりする。
概ねサスペンスドラマの見すぎなのかもしれないが、襲ってきた暴漢を突き飛ばしたら、そこにたまたま金庫のカドがあるかも知れない。
(トーストくわえてダッシュしてたら曲がり角で女子転校生とぶつかるよりは確率高いと思うんだ)
逆に、たまたまそういう場面に出くわせば、転がったボールを追って車道に飛び出そうとした幼児の身代わりになって大怪我をするぐらいのことはするかもしれない。
……そのように考えると、褒めかたにも貶めかたにも、それなりの品性ってもんがあるんじゃないのかな、と思うわけですよ。
投稿者 ushila : 23:47 | コメント (0) | トラックバック
MIKIKO先生はシンクロとかご覧になるのだろうか。
この間、たしか報道ステーションかなんかでやってた、シンクロの日本代表選考のドキュメントみたいなやつを見ていて思ったこと。
(ところで報ステで河野明子アナウンサーが見られなくなって淋しい今日この頃です)
Perfumeの振り付けって、要するにシンクロじゃね?
というわけで(どういうわけだ)、シンクロの日本代表は「ポリリズム」で演技すればいいと思うんだ。ポリループで世界のドギモを抜いちゃうのだ。
・・・あれ。ヴォーカルつきダメだっけ?
であれば、合宿中のお楽しみとして、「セラミックガール」を踊ればいいと思うんだ。
あれが一番シンクロっぽいんじゃないかと。
・・・そんな時間ないですかそうですか。