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2009年06月02日

最近の篠原美也子がズルイ。

もともと同じ題材や単語を何度も詞に書く人ではあるのだが。
最近の作品(「種と果実」以降の円熟期)においては、過去作を完全に「過去の自分」として切り離した上で、そこに向かって「今の自分」からメッセージを送るという手法に昇華している。

「誰のようでもなく」と叫んだ自分も、「心のゆくえ」を追いかけた自分も、彼女にとっては自分の一部であるのと同時に、もはや慈しむべき他者なんだろう。

その慈しみは、多分彼女にそそのかされて(笑)うっかり「風の行方」を追いかける「川を渡る背中」になっちゃって、「極楽駅から見える月」を眺める「前夜~Heavy Night~」を過ごす「ワザリング・ハイツ」から脱け出してない「葉桜」(たとえば、俺のような)にも多分向けられていて、だからこそ余計にぐっさり刺さっちゃうわけだが。

俺はここにもう少し踏みとどまって戦ってみるよ。
俺はあんたになれないし、誰もがあんたにならなきゃいけないわけでもない。でしょ?

投稿者 ushila : 2009年06月02日 19:17

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