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2011年12月26日
そうか。
まだアップしてない善光寺様賞の文章を読みながらもう一度考えてみる。
俺は輪るピングドラムを世界の閉塞感への挑戦の物語と理解していたわけだ。
しかし、冠馬と晶馬の二人にとっては、陽毬が救われるならば、世界の仕組みなどどうでも良かったのだろう。
ただ彼らは、陽毬が笑っていられる場所が作りたかっただけだ。
一方、眞悧の目的はあくまでも世界の仕組みの破壊にあって、おそらく冠馬と陽毬は利用されただけに過ぎない。
結果として三兄弟は救われたかもしれないが、そうなったとしてもそれはあくまで結果だっただろう。
で、ペンギン帽子ことプリクリ様ことモモカの力は、自己の犠牲と引き換えに、ごくパーソナルな世界を書き換える能力のように思う。
だから晶馬は燃え尽きるしかなかったし、たとえば陽毬がトリプルHの一員に戻るような、世界を遡る変革は起こり得なかった。
(冠馬が砕け散った理屈は良くわからん。本来運命を乗り換えることができたのは冠馬で、その権利を陽毬に譲り渡したとかそんな感じだろうか)
ただそこには、最初から冠馬と晶馬が存在しなかった代わりに、陽毬が笑顔で生きている世界が横たわっているだけだ。
逆に言えば、輪るピングドラムとは、一人の犠牲で実現できる物事など、やはり一人を救う程度のことでしかないと言う、残酷な物語だったのかもしれない。
あの世界には透明な存在にならなければならない子供はもういないのだろうか。
もしかしたら、眞悧がぶっ壊した後の世界の方が、もっといい世界だったんじゃないかと思ったりもするのだ。
投稿者 ushila : 2011年12月26日 00:41
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